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聖ビルジッタ修道女    St. Birgitta Vid.                記念日 7月 23日


 聖女ビルジッタはスエーデンのフォルクングス王室の親戚に当たる、信仰深い両親の第五子と生まれた。子供達はいずれも敬神の念に篤かったが、ビルジッタはわけてもつつましく育てられ、幼時すでにキリスト及び聖母の御出現を蒙り、将来の働きに対し準備されたという。10歳の時、また聖マリアが御出現になって、彼女の頭に後年の使命の印として燦然たる冠を被せ給うた。1314年の四旬節に、11歳のビルジッタはキリストの御苦難についての説教を聴き、深く感動し、その日は夜まで考え続けた。すると、まず晃々たる光が見え、次いで血に染まった主の磔り給うた十字架が見えた。ビルジッタが御いたわしさに耐えず「イエズス様、こんな目にお逢わせしたのは誰ですか?」とお尋ねすると、主は「我を軽んずる者、わが愛を忘れる者」と答え給うた。その時からビルジッタは主に主の御苦難について黙想するようになったのである。
 同年信心深い母のインゲボルグが世を去ると、やがてビルジッタはその姉と共に伯母の許へ引き取られることになった。この伯母は二人の姪の教育に深く意を注いだが、殊にビルジッタが天主と親しい交わりをしていることにいち早く気づいた。しかし父のビルゲルは間もなく彼女に身を固めさせるつもりであった。ビルジッタは14歳にして早くもウルフという貴族の青年から結婚の申し込みを受けた。彼女はそれをいたく悲しみ、結婚するよりは寧ろ死ぬ方がましとさえ考えたが、従順の為ついに承諾した。
 夫となったウルフは。年齢こそまだ若かったけれど、聖なる妻にふさわしい立派な人物であった。彼は彼女を深く尊敬し、その聖徳に倣おうと努めた。そして彼等はフランシスコの第三会に入り、相共に敬虔な生活を営もうとしたのである。
 その中にウルフはある州の総督となり、己を忘れて人民の為のみを思い、正義の政治を行った。そうなるとビルジッタも上流社会の習慣に従い、時々は客を晩餐などに招待せねばならなかった。しかしその後でまたわが居間に退いて聖会の為の仕事や貧民の為の仕事にいそしむのであった。彼女はまた好んで殉教者の伝記や教父達の著書、なかんずく聖グレゴリオのそれを耽読した。
 ビルジッタは8人の子を儲けたが、その中でマルタという娘とカルロという息子の二人は、彼女に並大抵でない心配をかけた。マルタは名誉心や快楽欲が強く、カルロは弱い性格で放蕩に身を持ち崩したのである。けれども敬虔な母親の涙と祈祷とは遂に勝利を得た。二人は救われ、殊に息子は遠いイタリアのナポリで死んだのであるが、犯した罪をことごとく心から痛悔して良き終わりを遂げたのである。

 スエーデン国王マグヌスは、若年にして妃を迎えられた方であるが、ビルジッタを宮中に招いて最高の女官とし、大奥を治めさせようとされた。ビルジッタは及ぶ限り拝辞しようとしたけれど、遂には承諾の外なくなり、賢明に、かつ愛を以て一切を処理し、また善徳の鑑を示した。すべての人々は彼女を尊敬した。とりわけ彼女がそのきらびやかな衣の下に粗い苦行服をまとい、厳しい断食をし、しばしば徹宵祈り明かすことを知ってからは、その尊敬は益々加わるばかりであった。
 しかし残念なことには、まだ年若く無分別な国王並びに王妃は贅沢、豪奢な生活に耽り、ビルジッタの聖い日常にさえ一向感動する色もなかった。で、彼女は諫めて容れられないのを見てとると、夫と共にお暇を戴き、二人でコンポステラに巡礼した。
 所がその途中ウルフはアラという所で大病に罹り、もし幸いに全快したら、修道院に入るという誓いをたてた。するとその願いは首尾よく聴かれ、彼は再びもとの身体になることが出来たから、先の誓いに従い、ビルジッタにも承諾を得てフランシスコ会の一修士となり、熱心に修道に努めたが、幾程もなく再び病気になり、立派な最後を遂げた。
 かくてはからずも寡婦となったビルジッタは、アルヴァストラ修道院の院長に願って、院付属の建物に住み、地上の生活というよりは天上の生活ともいうべき厳しい苦行の日常を送った。兎角する中にマグヌス王は無分別な豪奢生活に財を蕩尽し甚だ窮乏されるに至り、再びビルジッタを宮中に招かれたので、彼女は召しに応じ参上したが、まずもっと真面目な生活をせられるよう、誠意に溢れて諫言した。しかし王はその諫めをお用いにならなかったばかりか、宮中の人々も彼女に様々の侮辱を加えた。というのは、彼女の誡めやその聖い生活が安逸遊惰を好む彼等には目の上の瘤のように感ぜられたからである。ビルジッタは一切をよく忍耐した。けれども自分の勧告も無益である事を知ると、将来いつかスエーデンに大なる禍の来るべき事を預言し、去ってまたアルヴァストラの修院に戻った。
 当時代々の教皇はある理由の下にローマではなくフランスのアヴィニヨンに居住された。ビルジッタは之を遺憾に思い、天主の御示しをも受けて、書を教皇に送りローマに帰られるよう奏請した。彼女は在位年間の短かった教皇3人にそれぞれその事をお勧めした。シェナの聖女カタリナも同様に勧告し、遂に教皇のローマ帰還は実現されるに至ったが。その時にはもうビルジッタは、この世の人ではなかったのである。

 それはさておき彼女はその頃一修道院を創立する計画をも立てていた。マグヌス王は必要な物資を贈られ、教皇グレゴリオ11世は認可を与えられた。その修道院の設けられたのはヴァドステナで、これは後に彼女の墳墓の地となった所である。
 1350年教皇によりひとつの贖宥が布告された。ビルジッタはその贖宥を得るために是非ローマに行きたいという衝動にかられた。しかし故郷を離れる時は何となく後ろ髪を引かれる思いであった。それは恐らく、祖国スエーデンを再び見得ぬことを、冥々のうちに感じていたからかも知れない。
 彼女はそれから17年をローマに過ごし、徳行を以てすべての人の驚嘆の的となった。彼女はローマ在住スエーデン人の為色々配慮し、また彼女の娘と息子も母を慕ってその許に来た。
 ビルジッタは日頃からイエズスの御生活及び御死去の聖地を一目見たいという憧れをもち、その熱望を抑えることが出来なかった。それで彼女はパレスチナへの巡礼を企て、途中難船の憂き目などを見た後、ようよう同地に到着し、深い信心を抱いて霊場に参詣した。すると間もなく聖母が御出現になり、帰ることを命じられたので、彼女はそれに従ったが、その道すがら病気に罹り辛うじてローマに帰り着いた。それは1373年の四旬節の頃であった。
 ビルジッタはそれからなお二、三ヶ月を生きながらえていた。しかしその短い間に様々の激しい誘惑が起こり、次いで底知れぬ憂鬱に襲われた。それは天主の許し給うた最後の試練に他ならなかった。
 7月23日の朝、彼女は苦行服を着し、板の上にねかせてもらい、その病室で執行されたミサ聖祭を拝聴し、最終の御聖体を受け、感謝の為今一つの御ミサにあずかり、御聖体奉擧の時声高く「主よ、わが魂を御手に託し奉る」と叫んだかと思うと、そのまま静かに息絶えた。
 遺骸はまずクララ会の教会に埋葬されたが、一年後にスエーデンに運ばれ、ヴァドステナ修道院の教会に安置された。その墓畔には絶えず奇跡が起こり、1391年彼女は列聖の栄誉をになったのである。

教訓

ビルジッタの如く、人々の罪によって十字架に磔けられ給うたイエズスの事を考えるがよい。主の御苦難を思うほど罪を防ぐ便りになるものはない。



 ピエタ 聖ビルジタの15の祈り